ピーター・ドラッカー
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Peter Drucker
ピーター・ドラッカー

生誕 (1909-11-19) 1909年11月19日
オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン
死没 (2005-11-11) 2005年11月11日(95歳没)
アメリカ合衆国 カリフォルニア州 クレアモント
研究分野経営学社会学
出身校フランクフルト大学
影響を
受けた人物ヨーゼフ・シュンペーター
主な受賞歴大統領自由勲章(2002年)
プロジェクト:人物伝
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ピーター・ファーディナンド・ドラッカー(Peter Ferdinand Drucker、ドイツ語名:ペーター・フェルディナント・ドルッカー 、1909年11月19日 - 2005年11月11日)は、オーストリアウィーン生まれのユダヤ系オーストリア人[1]経営学者。「現代経営学」あるいは「マネジメント」(management) の発明者。

他人からは未来学者(フューチャリスト)と呼ばれたこともあったが[注釈 1]、自分では「社会生態学者」を名乗った。義理の叔父に公法学者国際法学者のハンス・ケルゼン(母方の叔母であるマルガレーテ・ボンディの夫)がいる。
経歴

父・アドルフ・ドルッカーウィーン大学教授)と母・カロリーネ・ボンディの間の子で、ウィーンで裕福なドイツ系ユダヤ人の家庭に生まれる。ドラッカーの自著によれば、父親はフリーメイソンのグランド・マスターだった[2]。1917年に両親の紹介で、同じユダヤ人の心理学者ジークムント・フロイトに会う。

1929年、ドイツフランクフルト・アム・マインの『フランクフルター・ゲネラル・アンツァイガー』紙の記者になる。

1931年にフランクフルト大学にて法学博士号を取得。この頃、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党、ナチス)のアドルフ・ヒトラーヨーゼフ・ゲッベルスから度々インタビューが許可された。

1933年、自ら発表した論文がユダヤ人を嫌うナチ党の怒りを買うことを確信し、退職して急遽ウィーンに戻り、イギリスロンドンに移住。ジョン・メイナード・ケインズの講義を直接受ける傍ら、イギリスの投資銀行に勤める。

1937年、同じドイツ系ユダヤ人のドリス・シュミットと結婚。

1939年、アメリカ合衆国に移住し、処女作『経済人の終わり』を上梓。

1942年にバーモント州ベニントンのベニントン大学教授となった。1943年にアメリカ合衆国国籍を取得。

1950年から1971年までの約20年間、ニューヨーク大学(現在のスターン経営大学院)の教授を務めた。

1959年に初来日し、以降も度々来日した。日本古美術のコレクションを始める(後述)。1966年には「産業経営の近代化および日米親善への寄与」が認められ勲三等瑞宝章を受勲。

1971年にカリフォルニア州クレアモントクレアモント大学院大学教授となり、以後2003年まで務める。1979年に自伝『傍観者の時代』を、1982年には初めての小説『最後の四重奏』を著す。

2002年、アメリカ政府から大統領自由勲章を授与される。

2005年にクレアモントの自宅にて老衰のため死去。95歳没。
思想など

ユダヤ系だったドラッカーは、ナチスの勃興に直面し、古い19世紀ヨーロッパ社会の原理が崩壊するのを目撃し、危険を悟りイギリスを経てアメリカに家族とともに逃れた。

そこで彼が目にしたのは20世紀の新しい社会原理として登場した組織、巨大企業だった。彼はその社会的使命を解明すべく、研究対象となるアメリカ大企業に協力を呼び掛けていた。その中で大手自動車メーカーのゼネラルモーターズ(GM)が、彼に声をかけた。彼は「同社の経営方針、経営組織を社外の立場から研究報告するように依頼された」。彼は、この依頼によって報酬の支払いを受ける一方で、彼自身の研究をすることを許された。そして書かれたのが『会社の概念(英語版)』(1946年)だった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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